3月5日、「2023 日本パラ水泳春季チャレンジレース」2日目が静岡県富士水泳場(静岡県富士市)で行われ、世界を目指すパラスイマーの力強い泳ぎが観客を魅了した。
最終種目として行われた200メートル個人メドレーでは、大会を締めくくるに相応しい好記録が誕生した。
SM8(運動機能障がい)の荻原虎太郎(セントラルスポーツ)は、自身の持つ日本記録を更新し、笑顔で喜びをかみしめた。前日の100メートル背泳ぎでは窪田幸太(NTTファイナンス)に4秒以上の差をつけられ、瞬く間に進化を遂げたライバルの泳ぎに衝撃を受けた。「自分はこのままでいいのか、水泳に向いてないんじゃないか」そんな不安にかられ、自分の何が良くなかったのか、答えを見つけられず「どん底にいた」という。重い気持ちを引きずったまま朝を迎えた。それでも、持ち前の“負けず嫌い"で「まだ行ける」と自らを奮い立たせ、この日のレースに臨んだ。そうして、東京パラリンピック以来1年半ぶりに自己ベストを更新してみせ、「あの時の自分をやっと超えられた。うれしい」と晴れやかな表情で語った。
また、SM10(運動機能障がい)クラスでは南井瑛翔(近畿大学)が日本記録を3秒以上も更新する2分22秒15のアジア新記録をマーク。派遣基準記録を切り、世界選手権の切符を手にした。
200メートル個人メドレーで世界記録を上回る2分15秒00の日本新記録を叩き出した石原愛依
そして、異彩を放つ“日本新記録"で鮮烈なデビューを果たしたのが、石原愛依(神奈川大学)だ。
大会前日の3月3日にS13(視覚障がい)クラスのステイタスを取得し、パラ水泳の初レースとなった今大会では、100メートル平泳ぎと200メートル個人メドレーの2種目にエントリーした。100メートル平泳ぎでは、世界記録まであと0秒52と迫る1分10秒09の日本新記録を樹立。これは東京パラリンピックの金メダルに相当するタイムで、一気に大きな存在感を示した。さらに200メートル個人メドレーでは、世界記録を6秒以上も上回る2分15秒00の“日本新記録"を叩き出し、会場から大きな拍手が送られた。国際クラスの取得はこれからということで、今大会で公認されるのは「日本新記録」までとなったが、新たな世界女王の誕生を大いに予感させるデビューに会場が沸いた。
石原は4歳のときに水泳を始め、競技として取り組んできた。157cmの身長を忘れるほどの大きな泳ぎが印象的だ。「手先の感覚や、体の使い方が昔から得意で、柔軟性を生かしたバネのある泳ぎが武器」と自らの泳ぎを語る。「技術」と「感覚」を強みに、すでに世界の舞台で戦っており、2019年にハンガリーのブダペストで開催された「第7回世界ジュニア水泳選手権大会」では女子200メートル平泳ぎと女子200メートル個人メドレーで銅メダルを獲得した。オリンピック出場を目指すなか、1年半ほど前、一昨年の秋に視力が低下、視野の狭まりや光の調節に難しさを覚えた。一時は競技を辞めようかと悩んだと言うが、「水泳が好き」「まだ勝負がしたい、勝ちにこだわりたい」と自分の中から湧き出る思いに向き合った。そして「水泳を続ける中で少しでも可能性を広げられたら」と、パラリンピックへの挑戦を決心した。
初めてのことだらけで「不安」を口にしていた石原は、「ガチガチに緊張した」とレース時の心境を語るが、会場でいろいろな人から「待ってたよ!」と声をかけられたのがとてもうれしく、「この選択肢を選んでよかったなと改めて思った」と肩を下ろすと、ようやく笑みがこぼれた。
来月には7月の「世界水泳選手権2023福岡大会」日本代表選考会を兼ねる、日本選手権が控えており、その先のパリオリンピック出場も視野に入れている。「どちらも中途半端にやる考えはない。オリンピックとパラリンピック、どちらも代表入りを狙って自分のベストの泳ぎをしたい」と、自身が下した決断に真剣に向き合う覚悟を語った。
石原の挑戦は多くのパラスイマーに刺激を与えた。石原と同じS13の辻内彩野(三菱商事)も健常者の世界からパラ水泳へと転向してきた経験を持つ。辻内は「オリンピックとパラリンピックの両方にチャレンジしている選手が増えてすごくうれしい。彼女から学べることも多いので、『来てくれてありがとう』と思っている」と歓迎した。
辻内は先月、新型コロナに感染し、思うようにトレーニングが積めないなか今大会に臨んだが、メイン種目の50メートル自由形で派遣基準記録を突破し、世界選手権出場を掴み取った。
1年後に迫ったパリパラリンピックを、競技人生の集大成とすることを明かした辻内。「東京パラリンピック以降、自己ベストが出ていない。しっかりスピードに乗った力強い泳ぎで、ベストが出せるようにしっかり練習を積んでいきたい」と世界選手権に向けての意気込みを語った。
さらに、「自分も石原選手にインタビューをして、いろいろ聞いてみたかった」と(石原のすぐ後に)会見場に現れたのは、S11(視覚障がい・全盲)の富田宇宙(EY Japan)。「障がいを負って(健常者の世界で戦っていたところから)ステージが変わるということを僕も経験した。自分が積み上げてきた実力を持ってこの世界に飛び込んできた時、今あるパラリンピックの世界が彼女の目にどう映ったかを知りたい」
同じ質問が自分に向けられたとしたら…。実際にパラリンピックの舞台を経験した富田はこう語った。
「パラリンピックには、結果がすべてというスポーツの一面と同時に、いろいろなバックグラウンドや障がいがある中で、それぞれのフィールド、それぞれの努力や過程を認め称え合う、という両面性がある。その“リバーシブル性"が魅力だし、オリンピックにはないアイデンティティ。僕はそういうところを伝えていきたい」
そのような強い思いを持ち、パラ水泳という競技に向き合っている富田。今大会を、午前中に予選、午後に決勝が行われる大きな大会の「リハーサル」と想定し、午前と午後に1本ずつ、2日間で4種目に出場した。狙っていたタイムを出せず悔しさをにじませた富田だったが、一方では泳ぎの修正ができた部分もあり「記録を上げていける兆しが見えた」と大会を振り返った。世界選手権に向けては、「パラリンピック1年前に行われる今年の世界選手権は非常に重要な試金石となる。そこで世界の中での自分の立ち位置を確認して、来年につながるような大会にしたい」と気を引き締めた。
大会を終え、7月末に開幕する「マンチェスター2023 WPS世界選手権大会」日本代表として、男子11名、女子9名の計20名(※保留選手を除く)が決定した。
※世界パラ水泳連盟が定める、世界選手権参加資格(競技クラスのステイタス)を現時点で満たしていないため、石原愛依、豊田美来(QlassicS)、齋藤正樹(ミミSC)、松田天空(NECGSC)の4名は保留。
パリパラリンピック出場権のかかる世界選手権で、トビウオパラジャパンがどのような泳ぎを見せるのか、期待が高まる。
(文・張 理恵、撮影・湯谷 夏子/村上 智彦)
●マンチェスター2023WPS 世界選手権大会 日本代表選手・保留選手
【肢体不自由・視覚障がい日本代表選手】
富田 宇宙 (EY Japan)
木村 敬一 (東京ガス(株))
田中 映伍 (個人(神奈川県))
日向 楓 (宮前ドルフィン)
荻原 ⻁太郎 (セントラルスポーツ)
窪田 幸太 (NTT ファイナンス)
鈴木 孝幸 (GOLDWIN)
齋藤 元希 (国士舘大学 PST)
南井 瑛翔 (近畿大学)
由井 真緒里 (上武大学)
⻄田 杏 (シロ)
小野 智華子 (あいおいニッセイ)
宇津木 美都 (大阪体育大学)
福田 果音 (KSG ときわ曽根)
石浦 智美 (伊藤忠丸紅鉄鋼)
辻内 彩野 (三菱商事)
【肢体不自由・視覚障がい保留選手】
豊田 美来 (QlassicS)
石原 愛依 (神奈川大学)
【知的障がい日本代表選手】
村上 舜也 (NECGSC)
山口 尚秀 (四国ガス)
木下 あいら (個人(大阪府))
芹澤 美希香 (宮前ドルフィン)
【知的障がい保留選手】
齋藤 正 (ミミSC)
松田 天空 (NECGSC)
●記録一覧
【世界新記録】
山口尚秀 (四国ガス) SB14 男子100m平泳ぎ 01:02.75
【アジア新記録】
福田果音 (KSGときわ曽根) SB8 女子100m平泳ぎ 01:25.55
南井瑛翔 (近畿大学) SM10 男子200m個人メドレー 02:22.15
【日本記録】
窪田幸太 (NTTファイナンス) S8 男子100m背泳ぎ 01:05.56
川渕大耀 (宮前ドルフィン) S9 男子100m背泳ぎ 01:09.06
上園温太( 須磨学園) S10 男子100m背泳ぎ 01:07.98
齋藤正樹 (ミミSC) S14 男子100m背泳ぎ 01:02.11
豊田美来 (QlassicS) S10 女子100m背泳ぎ 01:13.00
由井真緒里 (上武大学) SB5 女子100m平泳ぎ 01:57.99
石原愛依 (神奈川大学) SB13 女子100m平泳ぎ 01:10.09
芹澤美希香 (宮前ドルフィン) SB14 女子100m平泳ぎ 01:17.54
山中優輝 (個人(仙台市)) S14 男子1500m自由形 17:19.45
石原愛依 (神奈川大学) SM13 女子200m個人メドレー 02:15.00
荻原虎太郎 (セントラルスポーツ) SM8 男子200m個人メドレー 02:31.64
【水泳】
大きく分けて「肢体不自由」「視覚障がい」「知的障がい」のカテゴリーがあり、それぞれ障がいの程度に応じてクラスが分かれてタイムを競う。
使用するプールやスタート台、泳法(自由形、背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライ)は、一般の水泳と同じ。ただし、障がいを考慮して、一部ルールを変更して行われている。たとえば、視覚障がいのクラスでは、ターンやゴールの際にプールの壁に衝突しないように、コーチが「タッピングバー」と呼ばれる棒で選手の体をタッチして合図をする「タッピング」が行われる。また、両腕が欠損しているなど、障がいによってスタート時に体勢が不安定な場合は、コーチなどによって体を支えられることが認められている。
選手はそれぞれ自分自身の体の状態にあった泳ぎ方を開発し、さまざまな工夫が凝らされている。たとえば、視覚障がいの選手は、日常の練習で方向をつかむ感覚を養うとともに、レーンロープを頼りにして、少しでもロスを少なくしようと努めている。